人工大地集合住宅の試案
瀬尾 文彰
建築研究資料 No.13, 1976, 建設省建築研究所
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<はじめに> |
「人工大地」に関する考え方を述べるにあたって、あらかじめ「人工大地」という言葉の意味内容を規定しておくのが筋かもしれないが、そうすれば都合のよいことが分かっていても、今はそれが出来ない。われわれは「人工大地」のはっきりとした概念規定を欠いたまゝ「人工大地」に関する議論を始めなければならない。なぜなら、この新しい概念は、今後どのように成長するか予測を許さない流動的な状態にあるので、本文に述べる考え方以上には、リジッドな規定をくだすべきでないと考えられるからである。
それにもかかわらず不明瞭なりにいくばくかのイメージを敢えて提示しておく必要があるとすれば、この言葉「人工大地」の意味内容が新しくかつ生成の途上にあるつもりでも、その用語の使用は決して新しいものではなく(正確には既存の言葉は「人工土地」だが混同はまぬがれ難いので)既に一定のイメージが固定していると考える方が妥当であり、そのイメージを精算しておくことが、先ずは必要であろうからだ。坂出市の再開発に「人工土地」手法が用いられて以来、良きにつけ悪しきにつけ、「人工土地」といえば人々の脳裡に浮かぶのはあのイメージであろう。さらに最近では、高層フレームにカプセルユニットをはめ込むタイプのものを「人工土地」と呼んでいる例もある。そのいずれによっても、「人工大地」を表しつくすことは出来ない。「人工大地」は原則として高層の形式をとり、ベースになる構造と付加される構造との区分が明確化されるだろう。その点では後者に似ている。だが、ベースになるのは単なるセッティング・ベースではなく、「敷地」や「庭」や「街路」に当たるべき構造が幾重にも立体的に交錯し合った工作物であり、開放的で、ダイナミックで、まさに立体的な都市(ニューヨークのような都市はビルディングが平面上に並べられた平面的な都市である)景観を呈するものとなろう。しかも、それだけならまだ床が立体化されただけだが、さらに「大地」の機構=エコシステムが立体化されたものとなろう。くわしくは本文にゆずる。いずれにせよ、既存イメージとは一応きり離したところで議論を起こしたいという意図を明確にしておきたい。
われわれは、「人工大地」の考え方を軸にして、都市や居住環境の建設手法の変更について、いくつかの側面から議論したいと思うのである。都市の実情を見るとき、従来のやり方で都市を拡張したり再開発したりすることを続ければ、長期的な解決策に到達しないばかりか、危機的状況を拡大し、重大な結果を迎えることになるのは目に見えている。いまや、われわれは、環境のつくり方の転換期にさしかかっているのだと思われる。そのことは、社会的環境と物理的環境の両面について同じように言える。このままでは、都市生活の混乱はますます助長されるばかりであろうし、環境破壊や資源エネルギー問題を通じて生存の危機はますます拡大されるばかりであろう。こうしたとき、われわれがもっとも求めなければならないのは、ふたつながらの問題を一挙にとりこみながら未来を展望できるような、新しい環境技術のヴィジョンである。
「人工大地」の考え方は、このような文脈の上に置かれている。つまり、種々の個別的な技術のひとつとしてではなく、環境技術の新しいパラダイムとして見た場合にどうかということが問題なのだ。そのような立場で「人工大地」の可能性を議論したいと、われわれは考えているわけである。
*パラダイムとはトマス・クーンが「科学革命の構造」のなかで用いた言葉で、一時期の間、人々に対して問題の建て方や答え方のモデルを与える思考の枠組を意味する。科学革命とは、一定の理論の枠組が別の枠組に置き替えられることだと述べられている。
以下、本文において、「都市と人工大地」「集合住居と人工大地」「環境技術と人工大地」「人工大地手法の実際的効用」という4つの側面から人工大地の問題をとり扱っている。
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